綿について
綿の花はとても可憐な花です。しかし、綿は、日本をはじめ、多くの国の歴史において、植民地支配や少数民族への抑圧に、深く関わってきた「かなしい花」でもあります。
綿は、日本在来の植物ではありません。室町時代ごろまでは、朝鮮から、わずかに綿布の形で輸入されていました。(日本語の「もめん」という言葉も、朝鮮語の「モンミョン」から来ています)
江戸幕藩体制は、米を経済価値の中心に置くという建前でしたが、実際には、商品経済への移行を押し止めることはできず、日本各地で、さまざまな商工業が盛んに興りました。
当時、綿作は、東海地方から近畿地方にかけてを中心に、全国各地で盛んに行なわれていました。綿畑では、綿栽培のための 肥料として、大量のニシンかす(水で煮たニシンを圧搾して乾燥したもの)が使われましたが、これは非常に効果があり、ニシンかすを利用することで、綿の生 産量は飛躍的に増大しました。ニシンかすの原料のニシンは、その頃『蝦夷地』と呼ばれた北海道からもたらされました。これは、松前藩が漁場でアイヌを強制 労働させて得たものを、上方商人が北前船で運んできたものです。実態は、アイヌからの『強奪』であり、とても交易と言えるようなものではありませんでし た。
つまり、当時の日本人(和人)は、他の民族を武力をもって支配し、その地に産する自然の恵みを取り上げ、それによって江戸期経済の繁栄を得ることがで きたわけです。「『蝦夷地』は、本国経済を支える植民地であった」と言ってよいでしょう。特に、18世紀になると、松前藩では『場所請負制』といわれる植 民地経営の方式が確立し、アイヌに対する一層過酷な収奪が行なわれるようになりました。場所請負制というのは、アイヌの各居住地域を『場所』とよばれる領域に区分し、それぞれの場所の支配を『場所請負商人』に委ね、商人が得た利益の一部を運上金として松前藩に納める、という制度でした。アイヌを強制連行して漁場で働かせ、ニシンの他、サケやイリコ、昆布などを収獲させることで、松前藩と場所請負商人たちは、巨利を得ることができました。
言わば、場所請負制 は、奴隷労働の一種というべきものであったわけです。アイヌに対する処遇は、むごいもので、男は、休む間もなく危険な労働を強いられ、女は、和人に強姦さ れるなどしました。ひどい生活や、和人が持ち込んだ伝染病によって、この時期、アイヌの人口は激減したと言われます。
江戸の中期から末期にかけて、松前藩に存在した、いわゆる場所請負制度では、漁場の労働力として、各地でアイヌを盛んに 強制徴用にかけました。それを「クンチ」といったのであります。「クンチ」は絶対命令でありますから一旦この「クンチ」にかけられると、否も応もなく、も ちろん「クンチのがれ」というようなうまいこともなく、父は子から、夫は妻から、若者は愛人から、さながら生木を裂くようにひきはなされ、遠く異国の海に連れ去られ、そこで長い間、自由を奪われ、つらい労働にこきつかわれたということです。
綿作は、アメリカ合衆国でも、奴隷労働と密接に関わっていました。
アメリカ南部に広がる綿花栽培の盛んなベルト状の地域を「コットンベルト」と言いますが、ここでは、「開拓」の初期以来、黒人奴隷の労働力を使い、綿花生産地域として発展しました。特に、1830~60年の頃には≪綿花王国 --- Cotton Kingdom≫とも呼ばれ、「繁栄」を極めたということです。
アメリカ南部へのアフリカからの奴隷貿易は、公式には1808年に禁止されたのですが、それでも密貿易は絶えず、また、綿作プランテーションでの奴隷の「需要」はとどまるところを知りませんでした。
黒人奴隷は、白人農場主が経営する綿畑で、一生、過酷な労働を強いられました。また、奴隷の「所有者」は、私有財産として奴隷を自由に売買できたので,夫婦・親子・兄弟姉妹が別々に売られて、二度と会えないこともありました。
宗教も、キリスト教への改宗を強制されましたが、それにもかかわらず、白人と同じ教会を使うことは許されませんでした。
むしろ、キリスト教は、奴隷制度を維持・強化するための役割を担っていました。
しかし、奴隷の中には、服従に甘んじるばかりではなく、組織的な暴動を起こして白人農場主に抵抗したり、奴隷制度を認めない北部諸州へ逃亡する者も多くいました。
その頃、作曲家のフォスター(1826~64)がつくったのが、「オールド・ブラック・ジョー」です。日本でも有名であり、人々に親しまれているこの曲にも、綿畑 - cotton fields - で働かされて亡くなった友達を悼む一節があります。
OLD BLACK JOE
Gone are the days when my heart was young and gay
Gone are my friends from the cotton fields away
Gone from the earth to a better land I know
I hear the gentle voices calling old black Joe
もう遠い昔のことだ。気持ちが若々しくゆかいであった日々は。
もう友だちも行ってしまった。この綿畑から遠いところへ。
この世から行ってしまった。あの、ましなところへ。
みんながやさしく私を呼ぶ声が聞こえる。「黒人のジョーじいさんよ」。
I'm coming, I'm coming, for my head is bending low
I hear the gentle voices calling old black Joe
私も行くよ。そっちへ行くよ。もう腰もまがったからな。
みんながやさしく私を呼ぶ声が聞こえる。「黒人のジョーじいさんよ」。
さて、現在の日本では、綿畑はほとんど見られません。江戸時代には、あれほど盛んだった綿の栽培は、いったいどうなってしまったのでしょうか?
実は、1853年の開国以降、日本の綿作は、急激に衰退してしまったのです。
開国によって通商関係を結んだイギリスから、安価なインド綿が大量に輸入され、日本の綿花産業は壊滅的な打撃を受けました。
(アメリカは、ペリー艦隊を派遣し、他国に先んじて日本を開国させましたが、1860~65年の南北戦争にともなう混乱で、対日貿易ではイギリスに遅れをとりました。そのため、開国当初は、アメリカからの綿製品の輸入は、ほとんどありませんでした)
インド綿も、イギリスのインド侵略の中で生まれた「プランテーション作物」です。
「より巨大な植民地帝国」であったイギリスからのインド綿によって、日本の植民地経営が圧倒されてしまったのは、歴史の皮肉としか言いようがありません。